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明智光秀の塚(東山区)

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写真: 明智光秀の塚(東山区)

写真: 明智光秀の塚(東山区) 写真: 明智光秀の塚(東山区)

ツイのちmixiあんどフォト蔵……

17.11.04.
以前読んだ明智憲三郎氏著「本能寺の変 431年目の真実」の所感です。
先日これがマンガになっていることを知りました。たまげましたわ。
テメエのつぶやき収集。パート4。

天正3(1575)年、長曾我部元親、土佐統一。光秀の仲立ちで信長と同盟。共通の敵、三好氏討伐に。

阿波、讃岐、伊予へ侵攻した元親は、天正9(1581)年までに三好氏を追い詰めていた。

しかし、このとき信長は方針転換していた。
天正3(1575)4月、信長は三好一族の康長を帰属させていたが、その康長が三好一族を影響下に置けるようになると長曾我部氏との両立を図り始めていた。

これを許容できない元親は信長と敵対する。

信長は信孝を総大将に長曾我部征伐軍を編成する。
天正10(1582)年5月7日付の四国仕置の朱印状には、信孝に讃岐、三好康長に阿波、土佐・伊予は自身が淡路島へ入ったときに沙汰すると書かれていた。

大坂に集められた長曾我部討伐軍の侵攻開始予定日は6月3日。本能寺の変翌日である。

本能寺の変勃発で、元親は救われた。そして天正13(1585)年に四国統一を果たす。のちに秀吉に降伏し、土佐1国に封じられるが、彼の隆盛には光秀ありきという見方ができる。

長曾我部元親側近、高島孫右衛門なる人物が、元親三十三回忌の寛永8(1631)年に「元親記」を記している。そこには──

以下、泉淳氏現代語訳……

「重ねて明智家からも、斎藤内蔵介(利三)の兄の石谷(いしがい)兵部少輔(頼辰(よりとき))を使者として、信長の意向を伝えてきたが、これをも突っぱねてしまった。そこで信長は火急に四国征伐の手配をした。

御子息三七信孝殿に総支配を仰せつけ、先手として三好正厳(康長)が、天正十年五月に阿波勝瑞城に下着、先ず一ノ宮、夷山へ攻撃をかけ、長曾我部の手から、この両城を奪い返した。

信孝殿は、すでに岸和田まで出陣していたという。斎藤内蔵介は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」
斎藤利三が謀反を主導したと記されている。

同様の証言が当時の公家の日記にもある。

山科言経(ときつね)の言経卿記の天正十年六月十七日には、「日向守の内、斎藤内蔵助は、今度の謀反之随一」と、手柄一等ということが記されている。

勧修寺(かじゅうじ)晴豊の晴豊公記の一部、日々記の同日の記事には「かれなど信長打談合衆也」と、利三は謀反談合の一味であると記されている。

光秀重臣、斎藤利三がどうして四国、長曾我部元親に気を回したか。それは元親の正室が同母兄 石谷頼辰(いしがいよりとき)の義妹だったためだ。頼辰は石谷家へ婿養子に。

斎藤利三が重く関わっていることは確かだが、これだけでは光秀にとっては家臣筋の話に過ぎない。石谷頼辰も天正10(1582)年には光秀の家臣となっている。

この石谷氏。土岐源氏である。土岐一族である。明智氏と名を連ねる家柄だ。土岐文書のなかに南北朝時代以来の土岐明智氏、土岐石谷氏に纏わる古文書が存在している。

足利将軍家では幕府奉公衆として名が並んでいる。姻戚関係もある。

長曾我部元親が正室 石谷兵部大輔光政娘を迎えたのは永禄6(1563)年。
石谷氏は幕府政所代 蜷川氏や美濃豪族 斎藤氏と密な姻戚関係を形成しており、公家衆との交流も深い名門。

永禄9(1566)年、石谷頼辰と元親にやり取りがあったことを山科言継が書き残している。
また元親は信長とは上洛前から交流があった。三好一族討伐のための同盟が天正3年、本能寺の変は天正10年、上洛は永禄11(1568)年である。初見の取次も光秀だったと元親記に記されている。

元親の婚姻を契機に、頼辰、元親、光秀、信長、そして細川藤孝、足利義昭らとつながっていったと考えられる。

頼辰は主家滅亡後、身内と斎藤利三の身内(福もいたと考察される)を連れ土佐へ逃げている(ほか光秀臣下も多く来たのではないか)。天正16(1588)年に行われた長曾我部地検帳にその名がある。

頼辰は亡命者に過ぎないにも関わらず厚遇された。元親居城 岡豊城下に屋敷を与えられ、娘が嫡男信親の正室に迎えられる。

2代続けて石谷氏から正室を迎える長曾我部家。これは石谷氏の吸収一体化を図っていたのか。
九州征伐で信親は戦死してしまうが(頼辰も同じ戸次川で)、後継に指名した4男 盛親に信親の娘を娶らせている。

中央政権にもうパイプのない石谷頼辰にこだわる理由が、彼への恩義しか見つからない。

長曾我部氏の祖先筋は定かではないが、石谷氏が縁戚となったことで土岐源氏一族という意識が光秀には成っていたのかもしれない。

土岐一族は結束の強い血筋。また四国伊予は土岐氏所領。伊予守も土岐氏3代 光定より継承されていた。

信長の寵愛厚い出世頭。しかし余所者で家中では肩身が狭い。そのためか、己の活動領域近隣の外様臣下と誼みを多く通じていった。大和 筒井順慶、摂津 荒木村重、丹後 細川藤孝、近江高島 織田信澄(彼は一門衆だが)ら。そして長曾我部元親。近江坂本に本拠を得、さらに内外へ勢力を強めていった。


しかし、信長の方針転換により事態は変化してしまう。信長から土佐一国および阿波南半分の領有にて臣従せよという沙汰がよこされ、元親はこれを拒否する。

光秀の心中やいかに。

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